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『昭和史』

  • anc05825
  • 2014年4月13日
  • 読了時間: 3分

次の読書会は半藤一利の『昭和史』。

アマゾンで古本を買おうと思っていたのだけれど、そういえば、父の本棚にあったような気がして、東京に戻った時に探したら、やはりあった。

初版が2004年。平凡社。

分厚い本だけれど、べらんめーな講義の形式になっていて読みやすい。

「なんともアホウな日本人が、そのアホウさゆえにオロオロしているうちに、なんともバカげた規模の大悲惨を作り出したものだ・・・トホホ(泣)」という感じ。

たとえば、満州事変のきっかけになった柳条湖事件(鉄道爆破)を、決行か中止か関東軍内で揉めに揉め、結局決められずに割り箸転がしで決めようとしたこととか、ポツダム宣言受諾のときに降伏文書に調印しなければ終戦にはならないという国際常識を知らなかったために、多くの日本人が満州で、8月15日以降もソ連軍に殺されたりシベリアに送られたりしてしまったこととか、ほんとうに泣くこともできずにただ天を仰ぎたくなるようなオソマツ加減・・・。

ただ、思ったのは、かなりギリギリの頃まで、政府内部(天皇をはじめ)にも文化人のなかにも、「戦争はやってはいけない」と考える人たちが結構いたのだということ。

おそらく市井の人々の中にも、政府やマスコミの大声に惑わされずに、ひそやかに反戦を思う人たちが少なからずいたのではないか。

たとえば、ドイツでもかなり多くの人びとがナチスに反対していたのに、しかしその反対表明はただ、自宅のリビングルームのなかだけで語られただけだった、という話を思い出す。

やはり外で声を出し、それを結集して大きくしていくような方法論が必要なのだと思う。

選挙に行こうとか、デモに行こうとか、新聞に投書したりブログを書いたり、そういうことでもあるのかもしれない。

けれども、それはもしかしたら、「お花見会」とか「運動会」とか「お誕生会」とか、地域の人達が集まって楽しい時間をいっしょに過ごす「場」のなかにも、意識的に作っていけるのかもしれない。

半藤はまた、「時代の渦中にいる人間というものは、まったく時代の実像が理解できないのではないか」(p264)という。

「とくに一市民としては、疾風怒濤の時代にあっては、現実に適応して一生懸命生きていくだけで、国家が戦争へ戦争へと坂道を転げ落ちているなんて、ほとんどの人は思ってもみなかった」と。

わたしは、いま、どうなのかと考える。

やはり、他者とともに考え合う「場」が必要なのだろうと思った。

気になったのは、半藤さんも半ば承知で、そして自嘲風に書いているのだろうけれど、やはり、どうしようもなく「日本人論」になっていることだ。

ドイツ人と日本人は、「堅実で勤勉、几帳面、組織愛に満ち、頑固で無愛想、形式を重んじ・・・とマイナス面まで似ています。しかもともに単一民族国家ですから、団体行動が得意、規律を重んじ、遵法精神に富み、愛国心が強い。そしてともに教育水準が高く、頭が良くて競争心が強く、働くことに生きがいを感じている・・・」(p245)。

最終章でも「最大の危機において日本人は抽象的な観念を非常に好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しないということです」(p500)と。

こうしたオヤジ系「本質主義」に対しては、やはり戦略として、「そうじゃない日本人もたくさんいるよ」と軽めに脱臼させていくのがいいんじゃないのかな。

 
 
 

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