「ごめんなさい」のこと
- anc05825
- 2016年2月14日
- 読了時間: 3分
町屋の日本語教室に行った。
町屋に行くと必ず「お茶レクチャー」を頼まれるので、口下手のわたしは少し面倒でもあるのだが、考えたこと。
『クリティーク多文化・異文化』を読み直していることもあり、「本質主義」的な物言いについて話した。
オーストラリアへの短期留学でホームステイした家族のことだけを述べて、「オーストラリア人の家族はすばらしい、日本はそうした家族のつながりをなくしている」、「オーストラリアの家族は崩壊している。日本人には信じられない」という言い方がナンセンスだと言いたかったのだけれど、それだけではやはりあまり皆に伝わらなかった。
それで、わたし自身のベトナムでの体験:サイゴンのあるレストランに入ったら、わたしが日本人だという理由で追い出されたという話をした。
それはものすごくみんなに届き、ベトナム人のトアンさんは「ほんとうですか?ほんとうですか?」と何度も確認した後で、「そのベトナム人は悪い人です。ほんとうにごめんなさい」とわたしに言ったのだった。
わたしはトアンさんに「どうしてトアンさんがわたしに謝るのですか?トアンさんとはぜんぜん関係ない話ですよ。わたしも、そのベトナム人のレストランオーナーに、謝ることはなかったですよ」と言ったら、トアンさんは「わたしはベトナム人ですから」と答えたのだ。
昨日の話はそこまでなのだけれども、家でそのことをもう少し考えると、もしかしたらわたしもサイゴンのレストランで、トアンさんのように「ごめんなさい、日本人とした謝ります」と言ったほうが、その後のわたし自身とそのレストランとオーナーのためによかったのだろうかということだった。
たとえば、大学のわたしのクラスにいる中国人学生は、沖縄や小笠原諸島の近海で中国漁船が赤サンゴを密漁しているというニュースが昨年流れたとき、アルバイト先の店長に「中国人はなぜあんなことをやるのか?」と強い口調で聞かれて、困った挙句に「ごめんなさい」と謝ったという話を思い出す。
また、アメリカで初等教育を受けた日本人学生は、歴史の授業で「パールハーバー」をディスカッションした際、アメリカ人の先生に「あなたは日本人としてどう考えるかコメントして」と促されて、日本人であることが恥ずかしくてたまらなくなって、ほとんど泣き出しそうな思いで「ごめんなさい」と言ったのだと、授業中に話してくれた。
わたしの恩師は、論文指導の折に次のように話された。中国滞在中にお年寄りが背中の裂傷を示しながら「これは日本軍の兵士にやられました」と言ったとき、「申し訳ありませんでした」と謝ったというお話。
友人の鉄兵さんは、自称「小さい愛国者」であった韓国人青年のヒグンくんが小学生のころ、「ヒグンは大きくなったら何になるの?」と軽い気持ちで聞いた折に、「僕は韓国の大統領になって日本を植民地にして、日本が韓国を支配した36年の2倍、72年間、日本を支配するんだよ」という思いもかけないような答えが返ってきたとき、「ヒグン、ごめんな」と言ったのだった。
こうして考えると、う~ん・・・どうしたらいいのかと悩む。 わたしはサイゴンのレストランで追い出されたとき、そこでオーナーのベトナム人男性に「ごめんなさい」と謝り、そして「対話」を続けるという方法があったのかもしれないとも思う。
だがしかし!ここにはクレームを申し立てる者と謝ろうとする者との、うっすらとした力関係も微妙に働いているのかとも思う。
結論は出ないので、考え続けます。
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