「やさしい日本語」公開シンポジウムに行きました
- anc05825
- 2014年5月24日
- 読了時間: 3分
土曜日の午前中、一橋のシンポジウムを聞きました。
午後もいたかったけれど、別の研究会に参加予定だったので、泣く泣く!午前中だけ。
5月21日(水)に新潟市役所の新任職員研修で、ごく簡単にですが「やさしい日本語」について紹介したばかりだったので、シンポの内容はぐっと身近なものでした。
最初は横浜市の担当職員の人から。
横浜市では外国人住民向けの広報で「やさしい日本語」を使う基準を決めたということ。
その冊子も2冊(ルールブックと例文集)が配布されて、これは非常にうれしいです。
ただ、パネラーの講演にもあったとおり、「基準」や「ルール」だけが権威を持ってしまい一人歩きしてしまうのは危険ですね。
そして、「やさしい日本語」に対して、庁内でももちろん温度差があるようです。
責任の所在(意図が伝わらない、誤解される場合?)の議論もあるようで、少しずつ進みつつあるとはいえ、やはり現実のむずかしさもありますね。
この発表で思ったのは、外国人向けの広報だけなの??ということでした。
たとえば、高齢者や障害を持つ人、あるいは「ふつー」の日本人でも、やさしい日本語を望んでいるということは当然あります。
そして、いつか「やさしい日本語」という概念がなくなり、すべての日本語が「やさし」くなればいいというのは、シンポジストのことばにもありました。
そうしたとき、不特定多数の人々にむけて文書を作る公務員の場合、外国人向けのものとはやはり微妙に違うとも思います。
具体的には、すべての文書にルビをつけるのか、分かち書きをするのか、時候の挨拶やビジネス文書特有の前置きなどをどうするのか、といったようなことです。 わかりやすさを優先するのか、それとも「品位」を保つのかという対立、あるいは、ことばを簡略化してわかりやすさを作るのか、それともことばを尽くしてわかりやすさを作るのか、という対立とも関係するかもしれません。
まだまとまりませんが、いずれにせよ、誰に向けた文書なのかによってやはり「やさしさ」は変わってきて、不特定多数のひとへの文書については、外国人向けとはまた少し別の「基準」が必要なのかもしれないと思いました。
午後のパネルは聞けなくて残念でしたが、柳田直美さんによるインタビュー調査をもととした次のご指摘は、非常に重要と思います。
「外国人は日本人の説明を理解度、説明の程度、日本人の態度の3つの観点から評価していることが明らかになった。つまり、外国人はただ「わかる」というだけではコミュニケーションに対する満足度が低く、説明が十分に行われたか、不快感を与えずに積極的に会話に臨む態度が見られたかなども評価しているということであり、それらは『説明』という行為に対する重要な評価を担っている」
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