「パーソナル・ライティング」
- anc05825
- 2014年10月27日
- 読了時間: 3分
週末の土曜日に成城大学で、「表現教育の可能性-パーソナル・ライティングをめぐって」という公開FDワークショップに参加しました。
刺激的な勉強でした。
・多くの大学では「アカデミック・ライティング」だけでは対応しきれない。
・表現者としての「自己」「わたし」が機能していない=自分なりの問題意識がない学生が多い。
・そういう学生たちには、卒論を目指したテクニカルな文章指導よりも、表現者としての主体性を形成するための過程が必要。「わたし」を捉え返すための知が必要。
・パーソナル・ライティングとは、「わたし」を表現するエッセイ。自分の内面を掘り下げ、記憶と経験を言語化していく。そして、粘り強く推敲を重ね、他者に向けた「作品」を仕上げていく、という執筆活動。
そうした説明のあと、「臨床例」として何人かの学生たちの作品の朗読がありました。
持ち出し禁止だったのでここにその作品はありませんが、ひとりの学生の3つほどの作品を書いた順に集めてあり、その学生の「軌跡」がわかるようになっていました。
考えたことは、やはりまず「ポートフォリオ」が大切だということです。 これは、前回のブログで紹介した『実践・作文指導』にも、武和美さんが書いておられました。
学生に任せず、教師がそれぞれのものを収集しておく必要があります。
この場合、電子情報でまとめておいてもいいのかもしれないけど、やはり紙のほうが「軌跡」がわかりやすいかな。 FDの講師の谷美奈さんも、「Zine」という紙媒体の冊子をWEB経由で学生たちに作らせるということでした。 あと思ったのは、「批評」の難しさということです。
これは、文章指導では大昔からの課題なんだと思うけれど、評者によって評価が違ってくるということです。 朗読された作品のなかに、東日本大震災後のマスコミの風潮を批判したものがありました。 みんなが「きずな」とか「がんばろう」とか「こんなに悲惨だ」とかに振り回されているなか、友人から聞いた「人の不幸話」を嫌悪する場面もからめ、自分は結局「いつかわたしにもあんなことが起こる。だからそれまでは、この普通の日常を大切にするだけだ」という内容です。
谷さんは「これは単純なデタッチメントや、若者特有のアパシーではない」といい、評価は高いものでした。 しかし、わたしの読後の第一印象は、大震災直後に書かれたものだとわからなかったということもあったのかもしれませんが、自分の深いところまで見つめているとは思えないような、それこそ「アパシー」を感じるものでした。
一度しか読んでいないし、推敲の過程も知らない、ただの印象ですが、「作品」であるからには、やはり他者に伝わり得るような言語的工夫が必要で、それが足りないと思いました。
それはもしかしたら、むしろ「テクニカル」なものの習得で、ある程度解決するのかもしれません。
自己を見つめ、パーソナルな物語を書いていくという作業は、わたしは高等教育で必要な過程だと思います。 しかし、それは「なんでも自由に書きなさい」という不手際な綴り方教育的放りっぱなしではなく、「型」の導入も含むテクニカルライティングと、共存するものだと思います。
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