「目標」は、要る?
- anc05825
- 2014年11月15日
- 読了時間: 5分
先日の日本事情のクラスでは、「目標が必要だ」という留学生のレポート下書き(まだメモの段階)をもとに話し合いました。
「日本に来て日本語の勉強はがんばった。そして、いい成績も欲しいから専門の勉強もがんばってきた。でも、ではその日本語や勉強してきた知識を使って何をしたいのか、何をするべきなのか、そのことを今まで考えずにきてしまったことを後悔している。後輩たちには、わたしの二の舞を踏んでほしくない。だから、きちんとした目標を持って勉強することが大切だと主張するレポートを書く」ということでした。
日本人の受講者から、「率直な質問だけれど、あなたはなぜ日本に留学したいと思ったのですか」という質問がありました。
「実ははっきりした目標があったわけではなく、従兄弟などまわりに日本留学した人がいたので、自分も行くのがあたりまえのような、そういう、あまり深い考えはないまま日本にきました」という答えで、とても正直だなと思いました。
それに対して、ほかの受講者たちも、「わたしもきちんとした目的があって大学に来たわけではない」、「高校卒業後、すぐに社会に出ていく自信がなかったし、何をしたいのかわからなかったから、とりあえず大学に進学した」、「祖国の大学に入れなかったから日本に来た人も多い」、「漠然と、日本の技術を学びたいという気持ちだった」など、それらもとても正直な意見でした。
でも、次のような意見もありました。
「わたしの知り合いの男性は、留学前からしっかりした目標を持っていた。それは、日本でコンピュータの技術を学び、祖国に帰って公務員になるという目標だ。彼は3年だけ日本にいて、日本語能力はそれほど高いとは言えないが、コンピュータに関しては十分な知識を得た。そして帰国し、現在は国営銀行に勤務し、仕事上もプライベートでも充実した生活を送っている」
こういう例を聞くと、クラスのなかがけっこうタメ息~という感じの雰囲気にもなりました。
この手の議論は、いままでにもずいぶんありました。
そして、その都度、「やはり目標は持たなくちゃ。目標が無い人生は、時間の無駄。とりあえず、短期的にも目標を設定して、それに向けてがんばるべきだ」という結論になったように思います。
わたしの立場は、いつもあやふやになってしまいます。
教師として?大人として?、やはり目標があったほうが、がんばれるというのはあるように思います。
子どもたちや学生たちに「目標を持ちなさい」という世の大人の意見も、たしかにそうなのです。
わたしたち人間は弱いから、なにか目の前にぶら下がっていれば、それに向かってとりあえずはがんばれる。
わたし自身も、そうです。
でも一方で、「そんなに簡単に目標なんて作れないよ、わからないよ」とも思います。
思い出すのは、自分が学部生だったころ勉強したデイビッド・ヒュームの「目的不要論」(ヒュームはそんなことは言っていませんので、わたしの命名)です。
桂木隆夫先生の「西洋思想史」という授業でした。
先生の『自由と懐疑』を復習します。
ヒュームは1711年スコットランド生まれの思想家ですが、『国富論』のアダム・スミスと同様に自由経済を重視していました。
目標を明確に決めて計画的に経済活動をする(社会主義のように)よりも、多くの人々の自分勝手な意図による経済活動のほうが、正常で健全な経済秩序が形成されると考えました。
権力者や大企業の利益や意図から経済秩序が生まれるのではなく、いろいろな人々のいろいろな意図の寄り集まり=「神の見えざる手」によって、長期的に考えると正常な秩序ができるということです。
また、宗教についても次のように言っています。
当時は「野蛮視」されていた多神教は、多くの神どうしが矛盾しちゃって統一性に欠けるけれども、神との一体性と統一性を主張し論理的・整合的・体系的な一神教(キリスト教)よりも、寛容で開放的なネットワークを持つという点で優れていると言います。
一神教(キリスト教)は、狂信に陥りやすく、自分たちとは別の信仰に対して不寛容だというのです。
そして、ヒュームは、共同体(コミュニティ)での議論のなかから「良」を作り出していける「強い個人」だけではなく、感情や情念に左右され、想像力や思いやりにも限りがある「弱い個人」の存在も、現実的に認識していました。
でも、そういう人々で構成される社会は、ひとりひとりが生きていくために、自分と家族の生活を守るために、目の前にあることにとりあえずしっかりと取り組んでいけば、なんとなく知らないうちにみんなが幸せになる、というようなかなり楽観的なことを、ヒュームは言っているのではないかと思いました。(誤読??)
あるいは、下手に目的や使命感があるよりも、とりあえず日々の暮らしを着実にこなしていく?ことのほうが、もしかしたら、豊かで健全な人生なのかもしれない、ということかもしれません。
日本事情のクラスでの議論と、ヒューム主義とは、あまりにもスケールは違うのですけれども、この「目的論」を学生たちと考えるたびに、どうしてもヒュームは思い出してしまいます。
「目標がないから、これからはしっかり目標を持って生きよう」という明るい結論は、それはそれでいいのかもしれないんだけれど、だけど、そんなに単純じゃないんじゃないか、目標はないんだけれどがんばってきた自分について、もう少し深く考えてみたらいいんじゃないか、とも思うのです。
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